生まれた子の初対面と名前に込める想い

こんにちは。

この記事は以下の一連の出来事の10記事目です。

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生後0日目

新生児科の先生からのお話

子どもが生まれて1時間ほどが経ち、妻の容態も安定してきたため病室に戻った私たち。未だに子どもが生まれた実感は無く「生まれたね」「そうだね」と、どこか他人事のように言葉を交わしました。

そこへ産科の科長(偉い先生)がやってきて「今見てきましたけど、赤ちゃん元気そうでしたね!」と言ってくれました。そして一通りの処置を終えたら新生児科の先生が説明に来ること、それが終わって午後には赤ちゃんに面会できるだろうことについて話がありました。


「新生児科の先生からの話......分娩室では『楽勝だ』と言っていた先生。でも実際のところはどうだったんだろうか。」


緊張しながら待っていると新生児科の先生がやってきました。説明は非常に簡潔で、「基本的には2日前に説明した通りで、人工呼吸器の挿管を行いました。現在のところ目立った異常はありません。」とのことでした。

ホッとしたのも束の間、新しく出た話として輸血の同意書へのサインを求められました。

  • 未熟児はその処置の過程で輸血が必要になる可能性が高い。
  • 輸血は厳しい検査を通った安全なものが使われるが、非常に低い確率で肝炎を引き起こすリスクがある。(と言ってもここ何年も出ていない)

との説明がありました。

後で先生から聞いた話では赤ちゃんに異常が無くても、未熟児はそもそも貧血気味で加えて1日に8回ほど採血が行われるためそれだけで輸血が必要になる、とのことでした。

肝炎発症のリスクがほぼ無いほど低いとは言え、予断許さない状況に変わりは無いことを改めて認識します。


新生児科の先生からの説明が終わり一段落した頃、私は実家の両親へ電話をしました。両親には妻が切迫流産で入院をした頃から連絡しており、今回の緊急搬送の際にも連絡しましたが特に母はとても心配した様子でした。

で、実際に生まれて電話してみると今に泣き出しそうなほど悲しそうに「そう……」と声を出しました。話をしてみると、どうやら母の認識では「25週で生まれたらもう助からないと思っていた」とのことでした。

私が25週で生まれた子の生存率(2日前に伝えられた”90%から95%"という内容)を伝えると「え、そうなの!?」と少し元気を取り戻したようでした。ひとまず両親は次の日に病院に行くと言って電話を切りました。

生まれた子と初対面

その日の午後、ようやく生まれた子に面会できることになりました。

NICUへ向かう私たちは緊張していました。

「分娩室では産声も上げたし、新生児科の先生も今のところ異常は無いと言っていたけど、700g代の赤ちゃんってどんな感じなだろう……」

何か恐ろしいものが待っているのではないか、と不安になりながらNICUに入ります。


そこにはまだお腹の中にでもいるかのように、保育器の中で手足を縮めて丸まって眠る、小さな小さな、そして真っ赤な赤ちゃんがいました。

一目見て率直に思ったことは

「人の形をしている」

ということです。

あと15週もお腹にいるはずだったのだから、何か別の形態をしているのではないだろうか、と謎の心配をしていました。 でも顔があって手足がある。指もある。髪の毛も生えているしまつ毛もある。

体のサイズは両掌に収まるほどしかありませんが、どこからどう見ても人間だと分かる形をしていました。

そして真っ赤な体。未熟児は皮膚が薄く弱いため、体全体の赤みが強く出ます。「赤ちゃんって赤いから赤ちゃんって言うんだな」と、当たり前のことを初めて実感しました。


そんなことを考えながら我が子を改めて見ると、

  • 口からは人工呼吸器とミルクを直接胃に運ぶための管が差し込まれ、
  • お腹の周辺に心拍などを確認するための3本のモニター線が付けられ、
  • 足には酸素結合度を図るためのコードが巻かれ、
  • さらに腕には点滴。
  • その周りでモニターが忙しなく動いている。

やはり異様な光景でした。先生は「今のところ異常は無い」と言ったけれど、こんな状況でこれからも大丈夫なんて保証は一切ない。

生まれながらにしてこれほど過酷な状況に置かれた我が子を見て、自然と涙が溢れてきました。


保育器の中の温度は約35度に保たれており、これは子宮内と同程度の温度です。それに対してNICU内の気温は約27度。保育器内の温度を徐々に下げ、部屋の中の気温と同じくらいになれば保育器の屋根を取ることができます。

それまでの間、お世話は全て保育器側面にある開閉式の扉から手だけを入れて行います。


看護師さんに

「赤ちゃんに触ってあげてください」

と促され恐る恐る手を入れます。私の人差し指よりも小さい手のひらに触れると温かく、今にも破れてしまうのではないかというくらいに薄く張った皮膚を感じました。

自然と「ごめんね」という言葉が頭をよぎりました。


NICU内は気温が高いことや常にモニター音がする異様な雰囲気のため、長くいるのは疲れます。

「いつでも赤ちゃんに会いに来てください」と看護師さんから声をかけられ、ひとまずその場を後にしました。

搾乳生活の始まり

病室に戻るとその日のうちから”搾乳”が始まりました。これが長きにわたる妻の搾乳生活の始まりです。

恥ずかしながら私はそれまで”搾乳”という作業を知りませんでした。早い話が「母親が自分で母乳を絞り、冷凍して保存しておくこと」です。赤ちゃんに飲ませる際はに解凍して温めて与えます。

搾乳自体は完全母乳派のお母さんたちなど、普通に行われることですが、未熟児のお母さんたちには欠かすことのできないものです。


まず私たちの場合は15週も早く生まれたわけですが、そんなに早く生まれても不思議な事に母乳は出始めます。しかし飲んでくれる赤ちゃんは目の前にいない。かと言って母乳を出さないと乳腺炎などを発症してしまいます。そのため例え飲んでくれる赤ちゃんがいなくても母乳は出さなければいけないのです。

さらに「母乳を飲んでくれる赤ちゃんがいない」と言っても、生まれてしまった未熟児は何かしらの栄養を接種しなければならず、それはやはり母乳です。だから普通に産んだお母さんと同じように3時間おきに搾乳をします。そして早産したお母さんたちの与える母乳にはより大きな意味があります。

それは消化不良が起こるリスクを減るということ。「粉ミルクよりも母乳の方が消化が良い」というのは普通の子育てでも聞く話ですが、未熟児はただでさえ腸の疾患が起こりやすく最悪の場合は壊死性腸炎となり腸の切除、人工肛門を取り付ける可能性があります。

だからその大きなリスクを少しでも減らすため未熟児の母は必死で搾乳をします。


男の私には分かりませんが、妻の最初の搾乳は辛そうでした。看護師さんに思いっきり絞られ苦痛に顔を歪ませる。

これが普通に生まれた子であったなら幸せな痛みだったのでしょう。もうすぐ可愛い我が子がおっぱいを吸ってくれます。

しかし私たちはそうではありませんでした。本当に自分の口でおっぱいを吸ってくれる日が来るのだろうか。今は1回あたりたったの2ccしか与えられないその小さな体は、母乳を栄養に変えて大きくなってくれるだろうか。

大きな不安の中、妻は搾乳の痛みに耐えていました。

生後1日目

祖父母の面会

子どもが生まれて次の日、お互いの実家の両親がやってきました。両家とも県外から来るため時間は合わず、午前中には妻の両親、午後に私の両親が来ることになりました。

どちらも初めて超未熟児を見たわけですが共通する感想は「思ったよりしっかりしてそう」というものです。これは私たちが受けた印象と同じで、詳しいことを何も知らなければ”体重700gの超未熟児”と聞くと今にも死んでしまいそうな弱々しい子をイメージするのでしょう。

実際は形の良い頭で、髪もまつげもあり、時たま足を伸ばしたりモゾモゾしています。そんな赤ちゃんを見ると”思ったより”と感じるようでした。


特に私の母は妻が緊急搬送された時から母子ともに心底を心配をしていて、最初に赤ちゃんを見た時にショックを受けないかと心配していましたが、少し涙を浮かべこそするものの嬉しそうに笑っているのを見て少しだけ安心しました。

その一方で私の両親が最初に病室に入ってきた時、妻は「ごめんなさい」と両親に言って泣き出しました。

妻の両親の時はそんなことは無かったのですが、義理の両親にはかなりの負い目があったようです。私の両親は「そんなこと言う必要はない」とその謝罪を即座に否定していましたが、妻の”何か”に対する責任感は今後も増していくことになります。

動脈管開存症の診断

ところで私の両親がNICUに面会に来ていた時、私たち夫婦は当直の先生に呼ばれ別室に連れて行かれました。

「部屋を移動するということは良い話ではないだろう。」

部屋に移動する間、心臓が止まる思いでした。

先生から出た話は動脈管開存症が起こっている」というものでした。既に2日前に話を聞いていたとおり、動脈管開存症は未熟児のうち50%が発症するものであり、今現在開いているのも週数的には自然なことです。

しかし生まれて1日半動脈管が閉じないことで呼吸数が上がるなどあまり良くない症状が出てきており、まずはステロイドの投薬を始めたい、と話をされました。

このステロイドは非常に副作用が強く特に腎臓に負担がかかるため慎重に使う必要があり、早ければ1日ほどで効果が出始めるだろう、とのことでした。


事前に話を聞いていたとは言え、いざ告知されると心配が怒涛のように押し寄せます。あまり良くないと分かっていてもインターネットで情報を漁ってしまいます。薬で治った人、治らず手術をした人、手術のリスクや後遺症(と思われるもの)が出た人……など、情報を見ては不安で頭がいっぱいになりました。

超未熟児が生まれてからというもの、このような「山のように情報を手に入れて、溺れる」というインターネットの功罪を、痛いほど思い知らされました。悪い情報を見ては希望を見出すかのように良い情報を探し出す。そこからまた違った悪い情報を見つけて、いい情報を探して……の繰り返し。超未熟児でも個人で状況は大きく異なるため見ても仕方ないことがほとんどなのですが、何もできない親たちはインターネットの海に泳ぎだしてしまいます。

動脈管開存症は最終的に投薬で完治せず手術することになるのですが、それはまだ少し先の話です。

子どもの名前

妻は経膣分娩であったため、通常通り5日後に退院する事になり、それまでに決めておかなければならないことに”子どもの名前”がありました。

実は妻が前の病院に入院していた頃、ほぼ名前は決めていました。その名前は何というか少し意識高い系の名前で、

「才能を見つけて自分で自分の人生を切り開いて欲しい」

という感じの想いを込めていました。


しかし25週という超早産で生まれた我が子。

この子は歩けるようになるのか、話せるようになるのか、学校に通えるようになるのか、大学へ進学できるのか、社会人として仕事できるようになるのか……

私たちは普通に生まれた子が歩むであろう全ての未来が不確かに思えていました。

そんな中、当初考えていた名前は現状から考えるにはあまりにも遠い世界に思えて、再度名前を考え直しました。その名前には

「とにかく元気にスクスクと育ってほしい」

という想いを込めました。


この想いが届いたのかは分かりませんが、娘は何とか「無事」と言える状態で退院してきてくれますが、それはまだ少し先の話です。

この頃の私たちは動脈管開存症を始めとして「この先、何かとてつもない悪いことが待ち受けている」という不安に押しつぶされそうになっていました。