子どもが生まれてしまった日

こんにちは。

これは以下の一連の出来事の9つ目の記事です。 blog.wackwack.net

緊急搬送3日目

ついに点滴を外した妻とNICU見学

妻が緊急搬送されてから3日目。私は役所での用事を済ませて午前10時頃病院に着きました。

病室に入ると妻の腕からは既に点滴が外されていました。心なしか妻の表情はどこか晴れ晴れとしています。


その日の昼過ぎ、私たちはNICU/GCUを見学することになりました。

NICUとGCU。どちらも生まれて間もない、24時間体制で管理が必要となる新生児が入院する場所です。対象は未熟児・早産児に限らず、出産時に危険な状態(新生児仮死など)にあった新生児が運ばれてきます。さらにこの病院で生まれた子だけでなく、市内外の他の病院からも生まれて間もない新生児が搬送されてくることもあります。

NICU「新生児集中治療室」(Neonatal Intensive Care Unit)の意味で、文字通り一瞬たりとも目を話すことのできない危険な状態にある新生児に対する集中治療室です。基本的には生まれたての未熟児や重度の症状がある新生児が入院します。

GCUは「継続保育室」(Growing Care Unit)の意味で、NICUで治療を受けて状態が落ち着いた新生児が、退院に向けて継続してケアを受けるエリアです。


この病院では産科と新生児科が同じフロアにあります。妻は車椅子に乗り、産科の看護師さんの案内でNICU/GCUを訪れました。

NCIU/GCUは非常に不安定な状態の新生児が多くいる場所のため、入室も次のように厳しく制限されています。

  • NCIU/GCUの外扉は医師・看護師のみ開くことができる(カード解錠式の自動扉になっている)
  • 患者家族が面会する場合はインターフォンを押して病院から発行された面会証を提示する。
  • 患者に面会できるのは両親および祖父母のみ。
  • 1回に入室できるのは1家族で最大4人まで。
  • 入室前に石鹸で手を洗いアルコール消毒必須。
  • アルコール消毒後はNICU/GCUへの内扉は肘で開ける。
  • 入室時はスマートフォン機内モードにする。
  • NICU/GCUは通常の病室と異なり仕切りなどが無いため、自分の子以外の患者をのぞき見たりしない。
  • 当然写真撮影も自分の子”だけ”が写るように注意する。

同じNICU/GCUでも入室にあたってのルールは病院によって異なり、「スマートフォン自体の持ち込みが禁止」「両親以外は面会禁止」「子どもとの面会はガラス越し」というより厳しいルールの病院もあるようです。


外扉を開けてもらうとNICU/GCUの看護師長さんが出迎えてくれました。

内扉を入ると、まずは広々としたGCUのスペースがあります。GCUはコット(屋根のないプラスチックケースのようなもの)に入った新生児が、等間隔で並んでいました。1列4人 ✕ 4列の最大16人分のスペースがあるようです。

GCUは人数に対してスペースが広く、かなり静かな印象を受けます。また、遠目に見える赤ちゃんたちも普通の新生児と変わらないように見えました。


続いて同じ部屋の奥側にNICUのスペースがあります。GCUとはガラス窓で仕切られており、扉のない出入り口が2箇所にありました。

その一方の出入り口から中を見させてもらいました。

先ほど見たGCUとは全く違う印象を受けました。

GCUの1/4にも満たないスペースの中央に医師や看護師が座る机があり、その周りを取り囲むように赤ちゃんの入った保育器が円形に並んでいます。

中央の机の島と保育器との距離は大人2人がなんとかすれ違えるほどの幅で、中央から全ての患者を見渡すことができる配置です。

そして保育器の中にいる赤ちゃんにはたくさんのモニターがつながり、常にそこかしこで機械音が鳴っています。一言では言い表せない、これまでに感じたことのない異様な光景でした。


その光景を前にして、妻は泣きながら「みんな、頑張ってるんですね」と声を絞り出していました。おそらくその涙の理由は2つ。

ひとつは「先生も看護師さんもこんなに手を尽くしてくれる、きっと大丈夫だ」という安心感。もうひとつは全く反対の「自分たちの子も、こんな状態で管理されるんだ」という恐怖。

その2つの感情がごちゃまぜになり、何がなんだかわからないけど涙が流れたのだと思います。私も目に涙が溢れていました。



NICU/GCUの見学が終わり、出産前にすべき準備は全て終わりました。

張りかえし?……陣痛?

その日の午後を過ぎても、なんとなくの”張りかえし”があるだけで以前の病院で点滴を外した際に感じた強烈な痛みは無く、妻は「大丈夫かもしれない!」と笑顔を見せていました。

この日は木曜日。妻の元気な様子を見た私は夕方ごろ上司に連絡し「明日は出社します」と伝えました。


ところが17時。そろそろ帰ろうとした時、妻が

「張りかえしが治まらない、というか少しだけ痛みが増してるような……これって陣痛なんじゃ……」

と言い始めました。看護師さんに来てもらい触診されると、「念の為先生に見てもらいましょう」ということで診察室へ向かいました。

30分ほどして戻ってきた妻は

「先生に『陣痛じゃない』って言われた。大丈夫そう。」

と言いました。私はホッとしましたがなんとなく気になって帰れず、とりあえず病室で夕食を食べました。


そして20時。妻は

「やっぱり痛みが増してる」

と再度看護師さんに訴えます。またもや診察となり30分程で病室に戻ってきた妻は

「お産だって。」

と口にしました。


「まじか。」

それ以外の言葉が思いつきませんでした。夕方頃のあの余裕な感じは何だったんだろう。とにかく看護師さんに連れられて私も分娩室に入ります。

分娩室は明かりが落としてあり、リラックスのための穏やかな音楽が流れていました。

NSTノンストレステスト)の機器を付けっぱなしにして、時折看護師さんがその紙を眺めています。

「旦那さんは奥さんの手を握っていてください」

と言われ、妻の右側に座り手を握ります。妻はまだ余裕そうに見えました。

しかし1時間、2時間と経つに連れ妻が辛そうな声をだすようになってきました。別の看護師さんが入ってきてお尻の方を押しているようです。

「これってお産に立ち会う旦那さんがやるっていう、テニスボール押し当てるやつなのでは?」

とのんきなことを考えていました。


妻が辛そうにし始めてからさらに時間が経ちましたが、それ以降状況に変化が無いようでした。気づけば日付が変わり、私も手を握りながらウトウトし始めていました。

分娩室には横になれるソファがあって、私はそこで仮眠をとることにしました。その間も病室で触診してくれた看護師さんが夜通し妻に付き添い、NSTで出力されるお腹の張りを示すグラフを注視しています。私はその姿を見て、眠気で朦朧とする中「なんか女神みたいだな」などと感じていました。

前の病院では「痛い」と訴えても何もしてくれなかった看護師と医師。こんなにも違うものなのかという驚きと安心感を覚え、眠りに着きました。

出産当日

気がつくと夜が明けていました。妻は相変わらずの様子です。

看護師さんから「一度先生の診察になります。今のうちに朝食を買っておくと良いかもしれません。」と言われ、私は病室に戻り歯を磨き、病院の売店で自分の朝ごはんと妻用にウィダーinゼリーを買ってきました。

「今日も会社には行けないな。会社に電話しなきゃな……」

と考えながら分娩室に戻ると、先ほどとは明らかに様子が異なります。複数の看護師さんが慌ただしく走り回っています。


先程の看護師さんから「今からお産になります。準備ができたら声をかけますので外で待っていてください!」と声をかけられました。

昨夜分娩室に入ってから12時間が経った頃でした。なかなかお産が始まらず完全に油断していた私は、あまりに急な展開にあたふたしていました。

「え、まじで?本当にもう生まれるの?てか会社にいつ電話しよう。この時間じゃ上司がまだ来てないよな。」

と、混乱で何も手に付かないまま分娩室の外で突っ立っています。

それにしてもこの時は異様にバタバタしていました。ハイリスク出産ではあるものの、事前準備は万端だったんじゃないのか?と思っていたのですが、あとで聞いた話によると実はこの時、妻も含めて同時に3件お産になっていたらしく、しかもそのうちの1件が双子だったそうです。バタつくのも無理ありません。


その異様な状況に完全に飲まれていた私の元に「準備できました!」と看護師さんがやってきました。

手術衣のようなものを着せられて妻の頭側から分娩室に入ります。

そこには今朝最後に見たときと全く違う、陣痛に苦しむ妻の姿がありました。私にできることは昨晩と同じように妻の手を握ることだけでした。

そこに新生児科の先生と数人の看護師さんが到着し、保育器が妻の頭側にセットされました。新生児科の先生は2日前、私たちに後遺症の可能性等を説明してくれた先生でした。


妻の足元側には少し若めの産科の先生とベテラン風の看護師さん(この方は後で紹介されるまでお医者さんだと思っていました)が立ち、しきりに妻に指示を出しています。

当然私はその内容を聞いても分かりませんが、かなりテキパキしていたように感じます。

それ以降のことはもう覚えていません。私は妻の手を握りしめてボロボロ泣いていました。マスクの中は鼻水でぐちゃぐちゃ。とにかく「頑張れ」と言うことしかできませんでした。


そうして私が分娩室に入ってから20分を過ぎた頃。

赤ちゃんの泣き声が聞こえました。

生まれた瞬間の鳴き声はテレビドラマやドキュメンタリーでしか聞いたことはありませんが、その声は少し小さいかなとは思うものの元気いっぱいに分娩室に響いていました。


「肺ができていないから、産声をあげることはない。」

緊急搬送された初日、産科の先生からはそう言われた。でも、目の前の子はこんなに元気に泣いている。この子は生きている、生きようとしているんだ。

赤ちゃんの体は真っ赤。実際の出生体重は700g台で、手のひらにおさまる程の大きさしかありません。それでも赤ちゃんからは、強い生命力を感じます。

涙は勢いを増しもう止められません。妻は呆然と私の顔を見て「赤ちゃん、泣いてるよ」と言います。私はそれに答える余裕も無く、ひたすら泣いていました。


看護師さんによって取り上げられた赤ちゃんはすぐさま新生児科の先生に渡され、その場で処置が行われています。新生児科の先生は小さな声で「楽勝だ」とつぶやき、そして私たちの顔を見て「そんなに泣かんでも」と笑みを浮かべていました。

そこまで来て新生児科の先生に「お父さん、写真はいいの!?」と言われ、慌ててスマートフォンを取り出し、生まれたばかりのわが子を1枚だけ写真に収めました。

またたく間に処置を終え、新生児科の先生と看護師さんが赤ちゃんを連れて分娩室を後にします。

妻は「赤ちゃんを助けてください」と先生たちの後ろ姿に声をかけました。



あっという間の出来事でした。妻は残った胎盤を取り出す処置を受け、それが終わると容態が安定するまで2人ポツンと分娩室で過ごしていました。

あまり会話はしませんでした。二人とも呆然として「生まれたね」「そうだね」とだけ口にしていました。


そこに今朝まで診察をしてくれていた産科の先生がやってきました。

先生は他のお産があったためその場にはいませんでしたがニコニコ笑いながら「おめでとうございます。赤ちゃん元気に泣いたみたいですね!」と声をかけてくれました。

また、

「取り出した胎盤を見たところ、やっぱり炎症していました。色がカフェオレみたいになっています。感染の進み具合はこのあと病理検査に出して、詳細に解析します。」

とも言いました。


そう、何も終わっていません。絨毛膜羊膜炎によって胎児に感染が起こっていたのか、生まれてからの状況はどうなのか、これからが始まりなのです。


分娩室で待っていると私の電話が鳴りました。上司からです。始業時間から1時間ほどが過ぎていました。

慌てて電話に出て私はこのように報告しました。

「すみませんでした。昨日の夜から陣痛になって、先ほど生まれてしまいました。


「生まれて”しまいました”」

この言い方は、「まだ生まれてほしくなかったけど」とカッコ書きが付いています。それは望んでいなかった結果を意味しています。


緊急搬送された時から正解なんてものはありませんでした。1週でも1日でも長くいて欲しいと思う一方、胎盤は絨毛膜羊膜炎が進行し胎児へ感染する可能性もある。

本当に苦しかったこの3日間。その苦しんだ末のお産には達成感や幸せな気持ちはありません。

喪失感と後悔、先の見えない不安。

その真っ暗な闇の中に立ち、口から出た言葉が「生まれて”しまった”」でした。


「おめでとう」という言葉が当てはまるんだろうか。誰かに祝福される出産なのだろうか。……一体この先、あの子は、私たち夫婦はどうなってしまうんだろうか。

以前思い抱いていた出産のイメージとはかけ離れた、辛い現実に打ちひしがれる私たち夫婦。これが、その後100日間に渡るNICU/GCU通いの日々の始まりでした。