はじめての不妊治療と押し寄せる悲しみ

こんにちは。

この記事は以下で紹介している一連の経過についての2つめの記事です。

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今回は1年8ヶ月の不妊期間を経て通い始めた不妊治療専門病院での出来事と、その頃の心情を書いていきます。

はじめての不妊治療

私たちは大きな駅の直ぐ側にある病院を選びました。

理由としては次の点が挙げられます。

  • 不妊治療専門のクリニック
  • Webサイトや予約システムの仕組みがしっかりしている
  • 患者への配慮がしっかりしている(例えば2人目不妊よりも1人目不妊を優先、いかなる理由があっても子どもを連れてきてはいけないということを明示している など)

私たちは初診で不妊治療自体が初めてということで、まずは夫婦揃っての検査を受けることになりました。

病院に行ってみると、院内は大きくは無いものの小奇麗で落ち着いた雰囲気でした。何より患者のプライバシーを守る仕組みができあがっていることに感心しました。絶対に名前では呼ばず全て受け付け番号で管理されることはもちろん、不妊治療の病院は非常に混むため、診察呼び出し時には登録したメールアドレスにも連絡が来て、待ち時間でも近くに外出ができる仕組みが取られていました。

実際に私たちが最初に訪れたタイミングもとても混んでいて「こんなに治療を受けている人がいるんだ」と思いました。また、自分たちは決して若くないという認識でしたが、待合室のほとんどは自分たちより年上に見えました。高齢になれば妊娠率が下がるのは既に知られているとおりで、私たちが行った病院の患者層も30代後半から40代ぐらいに感じました。

精液検査とタイミング法

初診では妻の血液検査と私の精液検査が行われました。血液の方は結果が分かるのに時間がかかりますが、精液検査はその日のうちに結果が出ます。

インターネットで調べると男性側がこの精液検査を”屈辱”として拒むケースがけっこう多いようです。流れとしてはプラスチックの容器を渡され椅子とテレビだけがある狭い部屋に通されます。そこにはアダルトDVDが何枚か置いてありそれを使って自分で採取する、というものです。

私自身は採取自体に抵抗は無く、むしろ今まで経験したこと無いシチュエーション(?)に若干テンションが上りました。しかし一つだけ、緊張したのは制限時間が15分くらいに設定され、それを超えて時間がかかった場合には受付の女性から電話がかかってくる、という点です。「制限時間オーバーとか気まずすぎる……」という余計な心配をしつつ、なんとか時間内に任務を終え専用の窓口から容器を提出しました。


それから1時間ほど経って診察室に呼ばれ、精液検査の結果は異常なし。今後の検査は妻が中心に受けていくことになります。先生からは「まだ若いからまずは2,3回ほどタイミングを取ってみましょう」という話がありました。

これが噂に聞く”タイミング法”か、と思いました。名前の通り排卵日を狙って性交をするというものです。もちろんそれで受精につながることもありますが、そもそも子どもが欲しいと考える大人であれば言われなくてもやっているはずなので、この時点でタイミング法への過剰な期待はしていませんでした。

それと先生の「まだ若い」という言葉を意外に感じました。妻はちょうど34歳になった頃で若くはない認識でしたが、待合室で受けた印象の通りやはり高齢になればなるほど不妊に悩む人は多いということなのでしょう。


そんな中、血液検査に異常がなかった妻は次の検査に進んでいました。その一つに卵管造影検査というものがあります。これは精子が通る卵管に薬を流してレントゲンを撮り卵管に異常が無いかを調べるもので、この検査の直後は自然妊娠率が上がることとが知られています。

しかし当初の私の予想通り、卵管造影検査後でもあってもタイミング法では結果が出ませんでした。

地獄の温泉旅行

ところでこの頃、友人グループに家族ぐるみでの温泉旅行に誘われており悩んでいました。みんな私の大学の友人なのですが、そのうち1人が独身、4人が既婚の子持ちで子どもはほぼ同年代(1歳~3歳))、という構成です。小さい子がいる幸せそうな家族グループと一緒に過ごすというのは、不妊治療を受けている身である私たちには辛い環境でした。

一方で誘ってくれた友人たちと温泉に行きたいという気持ちもあり、当初は「自分だけ参加してくる」と妻に言っていました。しかし意外にも妻が「私も参加する!」と言うので、2人で参加することに。普通に考えれば妻は自分が行かないことに気まずさを感じていたのでしょうから、ここは無理にでも行くのを止めるべきでした。

結果的にこの旅行に参加したのは間違いでした。宴会中はみんなの子どもはかわいいし、妻もそれなりに楽しそうに振る舞っていましたが、宴会が終わり各自の部屋に戻ると一気に虚無感に包まれました。

食事中は楽しそうにしていた妻もどことなく元気がありません。みんなでの食事が終わったあとに、男性陣で2次会がありましたが妻の様子を見てそれに行く気にはなれず、私も部屋にこもっていました。しばらくはゴロゴロしてテレビを見ていたのですが、気がつくと妻が静かに涙をこぼしていました。

そして「ごめんね。」とつぶやきました。私には何も言い返すことができませんでした。


妻が謝ることではありません。でも他の幸せそうな家族や悲しみに暮れる妻を見ていると「もし、妻と結婚していなかったら……」ということを、つい考えてしまう自分がいます。


「『彼女と幸せになりたい、彼女をお母さんにしてあげたい』と思って結婚したはずなのに、こんなに悲しんでいる。これなら結婚せずにお互い別の人生を歩めば、違う幸せがあったのではないか。」


もちろん、こんなことを考えてもしかたないのは分かっています。

最初から子どもはいらないという考えの夫婦もいらっしゃるでしょうし、そういう幸せの形はもちろんあるでしょう。

でも私たちは子どもがほしいと思ってしまった。そう思った以上、どうしても周りと比べてしまう。この悲しみは、言わば嫉妬からくるものなのだと感じました。

これがもし、例えばテレビに映る超セレブに対する感覚のようなものであれば気にすることはなかったでしょう。「大金持ちになりたい」という願望があったとしても、実際の大金持ちは画面の向こうにいて、自分たちの友人・知人には一人もいません。だから大金持ちとは私たちにとっては”非現実”なのです。

しかし「子どもがほしい」という願望は違います。友人も同僚も親戚も、何事もなかったかのようにその願望を叶えている。そこには経験も学力も努力も関係ない。自分たちが望んだままに、生まれた時から持っている生物的機能を働かせるだけ。間違いなく「普通に子どもがいる」現実がそこにはあります。

でも、私たちにはその”現実”が来ない。


泣く妻を見てそんなことを考えていたら、ちょうど点けていたテレビドラマの中でも『友人同士で同じ時期に妊娠して同じタイミングで出産して、みんなで並んで写真を撮る』という場面が映し出されていました。

「現実にもフィクションにも、僕らの居場所はないのかな」

と勝手に絶望していた記憶があります。


まだ始まったばかりの不妊治療でしたが、いつになったらこの辛い現実から抜け出せるんだろう、という問が頭を駆け巡りその回答は、子どもができれば、しかないんだと改めて感じました。

しかしこの頃はその先にさらに辛い現実が待ち受けているとは想像もしませんでした。