生後100時間の壁と辛すぎる言葉

こんにちは。

これは以下の一連のできごとの12記事目です。

生後6日目

妻の面会生活の始まり

妻が退院した翌日。この日の夕方、義母が我が家に来てくれる予定になっていました。

妻は産後で体が疲れている状態ですが、家でじっとしているわけにはいきません。搾乳した母乳をNICUに届ける責務があるからです。この時の我が子が摂取できるのは1回あたりわずか2ccの母乳ですが、未熟児にとってその母乳には大きな意味があります。

体のあらゆる器官が未熟な未熟児は、消化不良により腸に疾患を起こしやすいのです。そして粉ミルクに比べて母乳は消化がよいためそのリスクを低減することができます。

ですから生まれた直後より妻は「とにかく母乳を切らさないこと」を最大の責務として考えていました。


しかし我が家から病院までは車で30分の距離。産後の体で車を運転したり公共交通機関を乗り継いでいくのは無理があります。ということで、義母に2週間ほど住み込みで来ていただき色々とお世話をしてくれることになっていました。

妻の体調が回復するまで私が会社を休んでも良かったのですが、妻からすれば実の母がいてくれることが大きな安心感となったようで、事実義母が来てからの妻はとても落ち着いているように見えました。来ていただけて本当に助かりました。


退院した翌日からの約100日間、妻は1日も欠かすこと無くNICUに面会へ行ってくれました。片道車で30分は決して近い距離ではありませんが、早産した家族の中には遠方から来ているとか、小さな子がいるとかで毎日来られない人もいます。

そんな中で毎日欠かさず通った妻の努力はもちろん、義母の支援も含めて毎日通える環境であったことは運が良かったと思いますし、我が子にも力を与えるものだったと考えています。

生後100時間の壁

気がつくと「最初の山」と言われた生後100時間(生後5日間)の壁を超えていました。

超未熟児で生まれた子は生後100時間の内に予後に大きな影響を与える症状(脳出血、壊死性腸炎、黄疸など)が出やすいと言われています。

だから子どもが生まれてからの5日間は、いつ病院から電話が鳴るのか気が気ではありませんでした。しかし、結果的には動脈管開存症の診断があったただけで、一番恐れていた脳出血は無く輸血も行われませんでした。


それでも油断はできません。先生も、

「体が小さいうちは脳検査は超音波でしかできない。今は超音波で分かるような大きな出血は無かったものの、最終的にはMRIを取るまで分からない。」

と言っていました。

MRI検査が行われるのは通常、退院が決まった頃です。我が子は順調に行っても退院は3ヶ月後。それまではこのモヤモヤを抱えていかなければなりませんでした。

生後8日頃(在胎26週相当)

久しぶりの面会

妻が退院してからの初めての土曜日。私が休日の間、義母は実家に戻っていました。

この日ももちろんNICUに面会に行きますが、私にとっては久しぶりの面会です。

私は平日は仕事があるためその後も土日に面会に行くことになるのですが、この時は正直に言うと面会に行くのが怖くてたまりませんでした。


NICUに行けば先生から悪い話をされるのではないか。」

「面会中に容態が急変するのではないか。」


そんなことばかりを考えていました。また、あまりにも小さなわが子を見て「かわいい」と思うのと同時に大きな不安を感じていました。

普通に生まれた赤ちゃんを見て「この子は将来、歩けるようになるんだろうか。喋れるようになるんだろうか。」と心配する親はあまりいないと思います。しかし、私は自分の子を見る度にそんなことを考えていて、この頃の面会は子どもを見れる嬉しさと計り知れない不安が混ざり合った、なんとも複雑なものでした。


そんな感じなので私は「もう暗い情報は知りたくない、話は聞きたくないししたくない」と思っていましたが、妻は全くの逆でした。

妻は毎日NICUに行っては「脳出血はあったか?後遺症は残るか?歩けるようになるか?」といったことを、しつこいくらい先生たちに聞いていたようです。NICUは24時間365日体制であるため、常に担当の先生がいるわけではありませんが、知らない先生だろうと気になることはとにかく聞きまくっていました。


しかし妻のその行動もまた恐怖から来るもので、この頃の妻はインターネットで未熟児に関するあらゆる情報、特にブログを読み漁る検索魔になっていました。

一言で「超未熟児」と言ってもその後の経過は個人個人で大きく異なります。1週でも長くお腹の中にいた方が予後が良くなるのは事実ですが、絶対そうとも限りません。事実、私たちの在胎25週よりも長くお腹の中にいても、重い後遺症が残る子もいます。


だからネットを見てもあまり意味は無いのですが、妻のあまりの質問ぶりに病院の先生は妻が検索魔になっていることに気づいたようで、

「お母さんはネットの情報とか鵜呑みにしちゃうタイプだと思いますが、症状は一人ひとり違うのでそれはアテになりません。とにかく気になることがあれば全て私たちに聞いてください。」

と言われていました。実際に妻は何でも聞いていましたが、その後も検索魔が治ることはありませんでした。

動脈管開存症の点滴が外れる

生まれてすぐ動脈管開存症と診断され1週間ほど点滴されていた我が子ですが、動脈管が小さくなってきたということで点滴が外れました。

まだ完全には閉じていないものの、体調に影響を与えないくらいに小さくなったため経過観察となります。

一方で今度はステロイドの投薬が始まります。これは事前に予定された治療ですが、ステロイドは副作用が強いこともあり「一時的に肺の状態が悪くなる」と先生から説明がありました。その状態が2週間ほど続き、生後100時間ほどではないにしろ小さな山場を迎えます。


結局は肺の方は特に問題ありませんでしたが、動脈管開存症はその後再発することになります。

自責の念

それは日曜日の夜でした。久しぶりに二人で過ごしていますが、翌日からまた義母が来てくれます。

夕食を終えてリビングでのんびりしていると、妻が突然「ごめんね。」とワーワー泣き出しました。

これまで見たことがないほどの勢いで泣き出したのでビックリした私。「ごめんね」という言葉を聞いて、もしかして私に黙っている、何か悪い情報があるのかと不安になります。


しかしそうではありませんでした。妻は、


「私のせいでこんなことになった。あの子は後遺症が残るかもしれない。歩けないかもしれない。そうなったら私たちを捨ててくれて良い。あなたに迷惑をかけるくらいならあの子と一緒に死のうかと考えている。」


というようなことを矢継ぎ早に話しました。


義母がいる間は笑顔も見せ、落ち着いているように見えた妻。

しかし内心では抱えきれない恐怖に怯え、自分を責める気持ちでいっぱいだったのです。

妻の何かが悪かったわけではありません。誰も責める人はいません。「後遺症が残るかも」というのも特に根拠は無く、大きな異常は認められていません。でもこの頃、目の前の現実は直視できないほどに辛く、その不安は計り知れないほど大きなものでした。


不妊治療をしていた頃も言われて辛い言葉がありましたが、これはそれ以上。

妻の感じていた痛みや恐怖とは比べ物にならないでしょうが、心臓をナイフで刺されたような、今まで味わったことのない絶望のようなものを、この言葉を受けて私も感じていました。