こんにちは。
私が仙台に引っ越してきた最初の年に東北大震災が起こりました。
とは言っても仙台の街中に住んでいた私は、「被災」とも言えないほどの小さなアクシデントだけで済み、とても幸運なものでした。
7年経った今、何か言いたいとか伝えたいとかではなく、あの当時に感じていたこと・覚えていることを振り返ってみようと思い立ち、投稿します。
※全て2011年
3月9日(水)
東日本大震災の2日前。この日のことはよく覚えている。仙台で震度5の地震があったからだ。普段経験しているものよりもかなり大きな地震だった。
それでもこの時は停電などの目立った被害も無く、
「けっこうでかいなー」
と呑気に構えていた。ましてや2日後に未曾有の大災害が来るなんて、夢にも思っていなかった。
3月11日(金)
14時46分
この日は入社して初めて、客先に伺って自らの口でお客様に説明などをした日だった。
一仕事を終え、帰社して自席でお茶を飲んでいた。
14時46分。
初めは小さな揺れだった。ただ、その長さはこれまでに感じたことのないものだった。
「ずいぶん長いなー」
なんて思った瞬間、これまでの人生で経験したことのない揺れが、2日前の揺れとは比べ物にならない大きな大きな縦揺れが起こった。
びびった。避難訓練以外で初めて机の下に隠れた。飲みかけのお茶が落ちてきて足にかかった。熱かった。
なかなか終わらない大きな揺れ。
「あれ、これ、死ぬ?」
と思った。床が抜けると思った。天井が崩れると思った。ビルが倒れると思った。そのくらいの衝撃だった。
ようやく揺れが終わってまず考えたことは「ビルから出なきゃ」だった。余震が続いていて、ビルが崩れることに心底ビビっていたからだった。それでも何とか冷静さを保ち慌てて駆け出すようなことはしなかったけれど、足がガクガクしていた。
そして間もなく上司から帰宅命令が出たので、帰りの方向が同じ同期とビルを出た。
異様な光景
ビルを出ると異様な光景が広がっていた。
歩道に人が溢れかえっていた。歩けないほどではないが、この付近のビルから一斉に人が出てきていると推測できた。みんな不安の中歩いていた。
道路のマンホールから水が吹き出していた。大雨でもない、むしろ快晴の中でのその現象に私は勝手に世紀末感を感じ取っていた。
途中のコンビニで店員さんが、
「お金は後日で結構です!お一人様ビニール袋一枚まで商品をお持ち帰りください!」
と叫んでいた。その直前まで私は『食糧の備え』なんて頭に無かったが、ぞろぞろとコンビニに人が入ってくのを見て「自分の分も確保しなきゃ」と思った。とりあえず適当に水や固形食を袋に詰め込んだ。
帰宅道
電車が動いていないことは明らかだったので、8km程の道のりを歩いて帰ることにした。しかし、ここで致命的な低能ぶりを露呈した。
自宅までの帰り道が分からなかった。大体の方向は分かっている。しかし仙台に来て1年弱、車も持たず行動は全て電車。電車を使わずに会社から家まで帰るルートを把握してなかったのだ。私も同期も。
覚えているのは酔っ払い状態で乗ったタクシーから眺めた微かな景色。その記憶を頼りに歩くが、多分間違っていた。
と、そこにタクシーが通りかかった。あの混乱の状況においては奇跡と言ってもいいと思う。幸運にも私と同期はタクシーで帰ることができた。
タクシー内での運転手さんとの会話は、もちろんたった今起こった地震のことだった。
運転手は、
「5mくらいの津波が来るらしいですよ」
と言っていた。恥ずかしながら当時の私はその数字がどれほどのものなのかを理解していなかった。
「はー。そうなんですかー。」
とか呑気に相槌を打っていた。
そうして途中で同期と別れ私は帰宅した。正直に言って私はこの時、あれだけの恐怖と異様な光景を前にしても、
「ま、大丈夫だろう」
と思っていた。その後に実家から安否確認の電話があった。母が「避難所とかに行った方が良い」と行っていたのだが、そんなに心配する程じゃないと私は考えていた。あまりにも危機感が薄かった。
信じられないニュース
その考えが頭から消えたのは夜になってからだった。
停電したままなのだ。これまでの私の人生では、停電は1時間もせずに解消されていた。それが暗くなっても電気が点かない。ここまで来てようやく「ヤバイかもしれない」と考えた。
夜になり近所の公園に行くと当時私が住んでいたマンションの管理人さんが炊き出しがしていて、それにあやかった。そこで偶然同期(一緒に帰ってきた同期とは別の人)と会った。
3月の仙台はまだ冷える。その同期は車を持っていたので暖を取るために彼の車で小一時間ほど過ごした。
車でラジオを聞くことができた。そこで流れてきたのは信じられないニュースだった。
「荒浜で100人以上の水死体」
耳を疑った。桁を間違っているんじゃないか?
人が倒れている浜辺を想像した。実際に亡くられた方はもっともっと多いのだが、その時点の私は十分な情報を持たず、地震から数時間で100人以上が亡くなったというのが信じられなかった。
このニュースで呑気な私も、今がとんでもない事態であることをようやく理解した。
満点の星空
同期と別れて部屋に戻ってもなお、余震が続いていた。またあの巨大な揺れが来るのではないか?と不安に駆られた私はおとなしく真っ暗な部屋にいることが辛かった。
そこで少し外を探索してみることにした。正確には避難所的なものを探してみた。
しかし会社から自宅までの道のりも十分に把握していないのだから、周辺の地理にも疎いのは言うまでもない。
少し歩いたところに高校があることは知っていたが、停電で該当は一切なく頼りは自分の懐中電灯だけ。出歩いている人もほとんどいなかった。結局学校は見つからず徒労に終わったが、家でじっとしているよりは良かったかもしれない。
この夜の探索で忘れられないことがある。満点の星空だ。
灯りが全て消えた街中。空には一つの雲もない。そこには無数の星が煌めいていた。未曾有の災害に見舞われた街中で見上げた星空は、これまで自然の中で見たどんな星空よりも美しかった。
家に戻った私は諦めて寝ることにした。しかし余震はまったく止まらず、とてもぐっすり眠れる状態ではない。あまりにも不安だった私は布団を玄関に持ってきて、靴を履いて寝た。大きな揺れが起こった時にすぐ外に出られるようにだ。あの時の私はそれくらい地震を恐れていた。
3月12日(土)
燃える海
寝ては起きてを繰り返し、朝になった。
明るくなって私は再度探索を始めた。そうすると昨日の夜見つけられなかった高校に辿り着いた。
体育館に入ってみると、いっぱいに毛布が敷かれ多くの人が避難していた。とてもじゃないが私が避難するような空間は無かった。私は家で寝ていられるだけマシなんだな、と思った。
そこでは河北新報の号外が配られていた。それで目を疑った。
海が燃えていた。
石巻だったと思う。津波による石油コンビナート(?)の爆発。海の上で燃え上がる真っ赤な炎と立ち上がる黒煙。これまで想像すらしたことのない海面。自分が何を見ているのか良く分からなかった。泣きたくなった。
区役所
今度は区役所へ向かった。そこにも多くの人が押し寄せていた。
ここに来た人の目的の多くは「テレビ」と「トイレ」と「充電」だったように思う。さすがは区役所とでも言うべきか。電源は不明だがテレビが映っていた。コードリールに挿されたタップでたくさんの携帯電話が充電されていた。水道も使えていた。
私も携帯電話を充電したいところだったがコンセントが空いていないので諦めてテレビを見ていた。そこには福島第一原発の建屋が映し出されていた。
前日夜に同期の車内でラジオを聞いた以外にほとんど状況を把握していなかったが、テレビを見る限りどうやら原発がヤバイらしかった。爆発しそうとかメルトダウンがどうとか。
遠い国の話として聞いたことがあるようなことを、テレビの中で喋っていた。私は固唾を飲んでテレビを見ていた。とにかく「厄介なことは起きないで欲しい」と思いながら。
次の瞬間、テレビに映し出された原発建屋から煙が上がった。
その時の私はそれが水蒸気爆発なのかメルトダウンなのかすら分からなかったが、「厄介なことが起こってしまった」ということだけは分かった。
厄介なことがテレビの中で起こっても遠くに避難することは現実的ではなく、しばらくして私はトボトボと家に帰った。
電気が点く
一旦家に帰った私は、知人から区役所にいると連絡があり夕方頃に再度区役所へ向かった。
辺りは暗くなり始めていた。区役所へ急いでいたその瞬間、街頭が一斉に灯った。
それは映画やアニメで見たかのような光景だった。
「おぉ……!!」
と口に出していた。
停電の復旧は比較的早いものだったと思う。大変ありがたかった。都市ガスは依然として使えなかったが、電気があるだけでとても心強かった。これまで当たり前のように使ってきた電気。その偉大さを実感した瞬間だった。
ただし自宅のテレビの映像は砂嵐のようになっていて、音声しか聞こえてこなかった。
3月13日(日)以降
日曜日は車を持っていた同期と早朝のドラッグストアに並んだり、臨時で営業を開始したATMの噂を聞いてお金をおろしたりした。ガソリンスタンドには車が列をなしていた。
月曜日には出社した。この頃から社畜精神は育まれていたようだ。
14日の月曜日頃だったかと思う。自宅のテレビを点けてみると砂嵐が直っていた。と思った瞬間。
テレビに映し出されたのは津波で家や車が流されていく映像だった。
それまで音声だけで情報を得ていたから、具体的にイメージできていなかった。11日の帰りのタクシーの中で運転手が言っていた「5mの津波」が意味するものをこの時にようやく理解した。私はしばらく無言でその映像を眺めていた。
5月
仙台の街中は電車が一部動かないなどあるものの、平常運転に戻っていた。
私は小さなメモを片手に、3月11日に食糧を提供しもらったコンビニへ向かった。メモには自分が記憶している限りの商品名を汚い字で書き記していた。それを店員さんに渡して精算を終えた。「150mlのvolvic」という絶対に無い商品を書いていて少し恥ずかしかった。
以上です。
繰り返しになりますが、当時の私の状況は「被災」とも言えないくらいの小さなもので、身内にも大きな被害はなくとても幸運だったと思います。
それでもあの日以来、それまで何とも思っていなかった小さな揺れにも敏感に反応するようになりました。
あの時の恐怖や目にした光景はきっと一生忘れることはない、と思う今日この頃です。