小さな星がほらひとつ

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JASRACに著作権法違反で怒られたので記事を修正した話

こんにちは。

継続的にブログを書き始めて約1年。貴重な体験をしました。

JASRACから

著作権法に違反しているからブログ記事を削除しなさい」

と要請を受けました。

事件の始まり

ことの発端は2017年3月3日、はてなサポート窓口から受け取った1通のメールでした。
3月3日のメール

ここで指摘を受けた記事がこちらの4つです。(後に追加で指摘されたものも含む)

2016年7月16日の記事
blog.wackwack.net Superflyの愛をこめて花束を


2016年12月1日の記事
blog.wackwack.net 星野源の地獄でなぜ悪い


2017年1月4日の記事
blog.wackwack.net アジカンの新しい世界


2017年1月22日の記事
blog.wackwack.net RhymesterのB-BOYイズム


このメールを受け取って思ったことは「こんな底辺ブログに突っ込んでくるなんてどうせロボットやろ!」ということです。

人間が判断してるわけじゃないから、何かしら抵抗すれば要請は取り下げてくれるだろうと思い、はてなサポート窓口へ以下のことを連絡しました。

JASRACからの回答

そうして2017年4月6日。この件について忘れ去っていた頃、なんとJASRACから再びの削除要求がきました。

「え、JASRAC仕事してたんだ……」

と思いましたね、はい。


結論から言うとJASRACの見解は変わらず、削除しろとのこと。
JASRACの見解

「あんたの書いてる内容は”感想”や”解説”であって、”報道”・”批評”・”研究”に当てはまらないので歌詞を引用する正当性がありません」

ということが引用と認められない理由のようです。


この引用が正当かどうか決めるのはJASRACではないし、はてなサポート窓口からは「直接担当者と話してもらってかまわない」と言われました。

が、気楽に書いているブログで面倒事は避けたいですし、自分は法律の専門家でもなく正直に言って「違うやろ」と言われれば「そうかもしれませんね」と思っちゃうくらいの感じなので、今回は該当の歌詞を全て削除することで対応しました。

「引用」の要件とは

ということで、今回の件はこれでお終いですが改めて引用が正当に認められるための要件をまとめておきます。

引用については、著作権法32条で以下のとおり定められています。

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

著作権法 より)

そして上記の「公正な慣行に合致する」「正当な範囲内で行われるもの」と認められるためには、以下の要件を満たす必要があるのです。
著作物が自由に使える場合|文化庁 より)

他人の著作物を引用する必然性があること。

今回のJASRACの指摘からすると「報道、批評、研究には必然性があるけど、感想、解説に必然性は無い」ということになるのでしょう。でも条文には”その他”とも書いてあり、「じゃあ”その他”には当てはまらないのかよ」とは思います。

かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。

ブログで言えば本文と引用部分が区別されている必要があります。

自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。

自分で作った(書いた)コンテンツが主体でなければなりません。「量」だけではなく「質」も問われると思います。

出所の明示がなされていること。

引用した元の出典を明確にしなければなりません。


これらは文章だけではなく画像やメロディーなど著作権を持つ全ての媒体に当てはまります。

ブログ上で引用するみなさんは、十分に注意しましょう。

残るモヤッと感

前述したとおり、今回の件について「私は間違っていない!」などと言うつもりはありません。

ですが、現行の著作権法の解釈がJASRACが言うとおり「感想・解説は、報道・批評・研究と違って引用する正当性が無い」のであれば、自由に音楽語るハードルが高すぎると思います。

だって「その曲が好きな理由が歌詞である」時、それを伝えるためにその歌詞を引用せず伝えることは大変難しいですよね。その曲を全く知らない人に対して歌詞を抜きにして文章だけで魅力を伝える・興味を持たせるって、私のような文章レベルの低い人間に音楽を語るなと言っているようなもんですよ。

まぁそれはいいさ。でもね、その理屈で言えばブログで書こうが友達との会話であろうが、歌詞そのものを使った時点でアウトってことになりますよね。歌詞だけじゃありません。人前でメロディーを口ずさめばアウトです。

もはやお金を払って手に入れた媒体”のみ”でしか、その音楽を楽しめないってことになりませんか?

どうなの、それ。音楽の良さ、可能性を潰しているようにしか思いえません。


と、どうしてもモヤモヤが晴れないことを記し、この記事は終えたいと思います。

ブロガーのみなさん、くれぐれも引用する際はルールに気をつけましょうね!


音楽そのものを楽しみたい方は、100万曲以上が聴き放題のAmazon Prime Musicがおすすめですよ〜(小声)

JASRAC概論―音楽著作権の法と管理

JASRAC概論―音楽著作権の法と管理

『派遣』と『請負』の違いを知ろう!

こんにちは。

私の職場は業界柄*1、たくさんの派遣社員さん”と”委託社員さん”がいらっしゃいます。社員よりも多いくらいです。

で、みなさんは『派遣』と『請負』(または委託)の違い、きちんと理解されているでしょうか。

「なんとなーく違う」くらいの認識は社会人であれば誰でも持っていると思いますが*2、『派遣』『請負』が正しく行われているかをきちんと認識していないと、いざという時に”違法な請負”に巻き込まれる、最悪の場合加担しかねません。

今回は厚生労働省の資料「労働者派遣・請負を適正に行うためのガイド」(平成27年3月版)を参考に『派遣』と『請負』の違いについて基本的な点をまとめてみました。

※以下に示すものは私が個人的に「かいつまんでまとめた」内容です。基準の内容や言葉の定義については必ず各自でご確認ください。

『派遣』と『請負』の違い

『派遣』と『請負』はどちらも「外部企業の仕事を自社の労働者によって遂行し、その対価をもらう」という業務形態です。

では何が違うのかと言えば 目的が異なります。そして目的が異なるため指揮命令権の所在が異なります。

派遣の場合

目的は『労働力』の提供

派遣契約は「労働力」を提供します。これはつまり「働いた時間分の対価が発生する」ということです。

成果に関わらず派遣労働者が残業した分だけ派遣先企業は残業代を払う必要があります。
派遣の目的は労働の提供

労働者への指揮命令は派遣先が行う

働いた時間分の対価が発生するため、指揮命令権は派遣先の企業にあります。業務の遂行に当っては派遣先企業が派遣元の労働者に対してあれこれと指示を出します。
派遣の契約形態

『請負』の場合

目的は「成果物の提供」

請負契約で提供するのは「成果物」です。これは注文企業からすると、誰が何時間働こうが関係無く、最終的に納品された“モノ“に対価を支払うことになります。

労働者が10時間働こうが100時間働こうが同じクオリティの成果物が納品されれば支払う金額は同じです。
請負の目的は成果物の提供

労働者への指揮命令は請負元が行う。

このため請負契約の場合、指揮命令権は請負元の企業にあります。請負元は責任をもって定められた品質の「成果物」 を提供する必要があり、責任を持っているのだから仕事に対する裁量も請負元企業が持って然るべきです。 請負の契約形態

『請負』であることの基準

目的が異なるため指揮命令の所在が異なる『派遣』と『請負』。

その違いを区別するための基準として「労働者派遣事業と請負により行われる事業との区別に関する基準(昭和61年4月17日労働省告示第37号)」が策定されています。

この中で定義された基準をザックリとまとめると、

  • 請負労働者は請負元企業がきちんと管理する
  • 請負業務を独立して遂行できる企業である

という2つの条件を満たす場合に『請負』と判断されると言えます。

請負労働者は請負元企業がきちんと管理する

まずは1つ目、「請負労働者の仕事は請負業者が管理する」という点です。これをさらに細分化します。

業務の進め方

請け負った仕事を「どのようなスケジュールで」「どのくらい人を割り当てて」完遂するのかを請負元企業が決定することを意味します。

注文企業との契約はあくまで「成果物の納品期限」であり、「この工程は◯日までに完了させて」「ここの作業は3人でやって」「毎週火曜日に報告書を提出して」などという細かな指示を出すことはできません。

それはら全て請負元企業が決定し、請負労働者へ指示する必要があります。

CHECK

これらの理由から注文企業と請負元企業の管理者(指揮命令を出す人)は迅速に連絡を取れる体制が必要であり、客先常駐の請負においては客先に請負元企業の管理者も常駐するケースがよく取られます。

この時「1人で労働者と管理者を兼任する」ことは認められません。なぜならそのような体制は「事実上、注文企業が指揮命令を出している」と判断されるためです。

必ず「請負元企業管理者」と「請負労働者」の2人以上の体制が必要になります。

1人だけで管理者と労働者は兼ねることができない

人員配置

これも業務の進め方と似たような話ですが、誰をその仕事に割り当てるかは請負元企業が決めなければなりません。

注文企業からは「◯◯のスキルを持った人」などの要望を出すことはできますが、「◯◯部の◯◯さんお願い!」や「事前に面接を実施する」など人員を指名・選定することはNGです。
請負契約で事前の面接はNG

請け負った仕事に誰をどうやって割り当てるかは、請負元企業が決めることです。

労働者の評価

請負労働者の成果に対する評価は請負元企業が行います。

客先常駐であったとしても例えば「日報を提出させる」「定例の面談をする」「注文企業の担当者から聴取する」などして、業務の遂行状況に対する評価を請負元企業が行う必要があります。

注文企業が評価を決定したり、評価内容に割って入ることはできません。

労務時間の取り決め

請負労働者が客先常駐であったとしても、労務時間は注文企業に合わせるのではなく請負元企業の指示で決める必要があります。

例えば請負元企業の始業時間が10:00で、常駐先の始業時間が9:00である場合は9:00に出社する必要はありません。

業務の性質により注文企業の就業時間に合わせる必要がある場合は、請負契約内でそのように取り決めた上で請負企業から労働者へ指示する必要があります。


また例えば緊急で休日出勤が必要になったとしても、注文企業から労働者へ命令することはできません。その場合は注文企業と請負企業で調整した上で、最終的に請負元企業から労働者へ命令する必要があります。

請負業務を独立して遂行できる企業である

2つ目です。これは指揮命令権云々以前に、企業体としてきちんとなっているべきという条件です。

資金調達ができる

事業主として責任が果たせる

「事業に必要な資金は自分たちで用意してね」「請負労働者が犯した過失は請負企業が責任を取ってね」ということですね。ここがきちんとしているかは、注文企業も責任をもって確認しておく必要があります。

業務に必要な機材は自分たちで用意する

当たり前のように感じるかもしれませんが、重要です。既に記したとおり請負業務は「成果物の提供」を目的にしており、その遂行方法は請負元企業に一任されます。そのため業務遂行に必要な設備が揃っている、必要な材料の入手ルートが確立されている、といった点が保証されていなければなりません。

「手段は後で考えます」は許されません。

企業独自のノウハウで業務を遂行できる

ここが結構分かりにくいなぁと思ったのですが、勧告の言葉を借りると「自ら行う企画又は自己の有する専門的な技術若しくは経験に基づいて、業務を処理すること。」とあります。

つまりは「単純な肉体労働や誰でもできるよ仕事で請負労働してはダメですよ〜」ということです。例えば「注文企業が用意したマニュアルに沿って作業を進めるだけ」という単純作業は請負契約的にはアウトです。

『派遣』と『請負』は実態で判断される

ここまでに『派遣』と『請負』の違い、とりわけ『請負』と判断するための基準について簡単にまとめてみました。

そこで重要なことは

『派遣』か『請負』かは契約内容ではなくその実態で判断される

ということです。


請負契約を結んでいたとしても前述の条件に反する労働が行われていた場合には偽装請負となり、法的に罰せられる可能性もあります。

蔓延る『偽装請負

この『偽装請負』、健全な業界の方は縁遠いかもしれませんが私が勤めるIT業界では頻繁に問題となります。

偽装請負』とは「契約は請負であるにも関わらず、労働の実態が派遣となっている」事象、および企業がそれを意図的に実施していることを指します。つまりは請負労働者に対して注文企業が直接業務の指揮命令を出している状態です。
偽装請負の状態


なぜ『偽装請負』が行われるのか。それは企業が”直接命令できる『派遣』の労働力”と”契約としての『請負』のメリット”を同時に手に入れるためです。契約における請負の主なメリットとして2点を挙げます。

残業代を支払う必要がない

請負は「成果物に対する対価を支払う契約」であるため、請負労働者がどれだけ労働したとしても注文企業が労働時間に比例した報酬を支払う必要がありません。

だから請負労働者を派遣社員のように扱うと、時間外賃金なしにひたすら残業させることができるのです。
偽装請負は過度な残業をもたらす

労働者に対する責任を回避できる

派遣契約では指揮命令権が派遣先企業にあるため、派遣社員に対する労働環境の整備や業務指導・教育を行う必要があります。

一方で請負契約においては請負労働者に対する労働災害や業務指導、必要な設備の準備などは基本的に請負企業の責任となります。このため注文企業にとっては必要経費が安上がりであり、万が一労災が発生したときなども『請負契約』を盾にして責任逃れがしやすい状況になるのです。

労働者にとっては百害あって一利なし

企業が『偽装請負』に手を染める主なメリットを2つほど挙げましたが、特に注文企業(派遣先)にとってのメリットが大きい気がします。

逆にある程度の企業同士の場合、請負元企業側の受けられるメリットがそれ程無い気もします。請負元企業としては「受注競争に勝つために、偽装するメリットは少ないけど受注できないよりはまし」という理由で偽装請負に付き合う、といったところでしょうか。

しかしどんな理由があろうとも『偽装請負』は法令違反であり恩恵を受けるのは企業。労働者には害しか無いことは明白であり、許されるものではありません。

「知らなかった」では済まされない

『派遣』と『請負う』の違い、特に若いうちは「自分には関係ないかな〜」と思いがちでかもしれません。

しかし正しい認識を持ち合わせていないと、「知らず知らずのうちに『偽装請負』に巻き込まれていた、してしまっていた」なんてことになりかねません。特にあなたが使用者側(注文企業)であった場合に責任を追求される可能性もあります。

そうなる前に「あれ、これ変じゃない?」と気付くため、自分の身を守るためにも『派遣』と『請負』について最低限の理解を身につけておくことがおすすめです!


労働者派遣と請負・業務委託・出向の実務―労働者派遣と請負等の適正化のために

労働者派遣と請負・業務委託・出向の実務―労働者派遣と請負等の適正化のために

*1:ネットでWeb界隈によくディスられるSIer

*2:数年前に同期が「どっちも一緒でしょ」発言していてドン引きしたことがある

すぐそこにある凶悪。映画『凶悪』の感想。

こんにちは。

Huluで山田孝之主演の映画『凶悪』を観ました。

凶悪

凶悪

映画を観ての感想は、


ま さ に 凶 悪。


何と言っても山田孝之ピエール瀧リリー・フランキーの3人の演技がハンパじゃない。特にピエール瀧リリー・フランキーそれぞれの凶悪さは圧巻です。

実在の事件『上申書殺人事件』がモデルとなっており、「何も考えず褒め称えるのも不謹慎かな」と思いつつ、やっぱりおもしろい!

ということで感想を綴ります。

※以下ネタバレ注意

あらすじ

ある日、ジャーナリストの藤井(山田孝之)は、死刑囚の須藤(ピエール瀧)が書いた手紙を持って刑務所に面会に訪れる。須藤の話の内容は、自らの余罪を告白すると同時に、仲間内では先生と呼ばれていた全ての事件の首謀者である男(リリー・フランキー)の罪を告発する衝撃的なものだった。藤井は上司の忠告も無視して事件にのめり込み始め……。

(シネマトゥデイより)

感想

キャスティングの大勝利

この映画の何がすごいってキャスティングです。

事件を追う主人公、ジャーナリストの藤井を演じた山田孝之。表情こそほとんど変えませんが、あの目力で観る者を圧倒します。さらに”真っ白な正義”ではなく、どことなく”狂った正義”を持っていそうな、汚れ感のあるジャーナリスト役がバッチリはまっていました。


次にある意味真の主人公、人を殺すことに何の躊躇もないまさに”凶悪”を体現した存在。暴力団員で死刑囚の須藤を演じたピエール瀧。もうね、とにかくね怖い。

まずあの顔面。怖すぎる。でかすぎる。もう本物のソレにしか見えません。あ、これ一応褒めてますからね?

そして全身から滲み出る凶悪感。体もでかい、確実に強い。「こんな奴と関わり合ったら絶対殺される……」そう感じずにはいられない恐ろしさがあります。

一方で刑務所の面会ではしおらしく丁寧に振る舞い、一応社会に適応する常識もありそう。

まぁむしろそれが逆に薄気味悪い。とか思ってたら突然のブチギレでまたまた鬼の形相に。演技の切替・メリハリが素晴らしいです。


そしてそして全事件の首謀者であり須藤たちから「先生」と呼ばれる木村孝雄を演じたリリー・フランキー。口調やその表情は須藤と打って変わって、リリー・フランキーが持つ大人な雰囲気です。

だがしかし。それでいてさらっと恐ろしいことを口走る。

「鉈ってある?」

「転がしてる土地あるからそこに埋めちゃおう」

「じゃあお酒飲ませて死なせちゃうから。」

このおっさん、恐い(確信)。

さらにこのおっさん、悪事を働く時に無邪気にはしゃぐ。「あ、こいつヤバイ」と思わずにいられません。異常にハイテンションなあのおっさんは誰にも止められない。


とまぁ主要な役を演じるこの3人がものすごいんですよ。

彼らの演技を観るだけで迫力があり、恐ろしく、禍々しい。このメンツでこの内容の映画を撮った時点で大勝利ですよ。

凶悪は日常にある

物語的な面白さで言えば

凶悪は日常に転がってるんだよ

という事実がガツンと突きつけられる点にあります。


現実の悪人はフィクションの世界に出てくるような、一種の信念や矜恃を持っていたりカリスマ性があったりなどということは一切無い。

現実の悪人が持っているのは「損か得か」の判断だけ。労力に対して楽に大金を得ることができれば人を埋めようが燃やそうが、何人殺そうが関係なし。彼らにそれ以外の拘りはありません。


特に劇中で須藤が頻繁に使う

「ぶっこんじゃおう」

というパワーワード。これの使い方があまりにも軽い。「よーし、いっちょ仕事しますか!」「ランニングいくぞー」という仕事や部活に精を出すくらいのノリで、人の死という重みがまるで無い。言ってることとやっていることの重さのギャップこそが、凶悪。


そしてそんな考えを持つ人間が現実にいる。どころか、もしかすると自分のすぐそばにいるかもしれないという事実。

これを体現する、劇中屈指の嫌なシーンがあります。それは須藤や木村が1件目の事件で人を燃やした直後、家族と仲良くクリスマスパーティーを催しローストチキンを頬張る場面。戦慄を覚えます。

ここだけ切り取ればどこの家族にでもある団欒で、事実彼らからするとどこにでもいる家族なんでしょう。そう、日常的には普通の一面もある。

そしてそれは悪人たちが紛れもなく私たち一般人と同じ世界、同じ空間に住んでいて、平和な日常の地続きとなっていることを意味します。


だから恐い。この映画が描く”凶悪”はスクリーンだけの世界でも無ければ、遠い国の話でもない。あなたのすぐ近くで起こるかも知れない悪事なのです。物語のモデルが実在した事件であることが、何よりの説得力でしょう。

この凶悪、ぜひ味わいましょう

ということで映画『凶悪』の感想でした。

過激な表現やグロい描写満載で、視聴のハードルは高いかもしれません。

ですが主要3人の演技、日常に潜む凶悪の背筋が凍るような恐ろしさは、他では味わえないであろう素晴らしい映画でした。ある種のホラーを楽しみた人におすすめです!!

なお恋人同士、家族みんなでの視聴はおすすめしません。

一番怖いのは人間だ。映画「河童のクゥと夏休み」を観ました。

こんにちは。

Huluで映画河童のクゥと夏休みを観ました。

公開当時から存在だけは知っていて、タイトルやパッケージ写真のイメージから「少年と河童の友情的なあれね。」と思っていました。

が、全ッ然そんなんじゃなかった。

とても子ども向けのアニメーションとは言えません。けれども、子どもも大人も観るべき人間社会の闇を映し出す素晴らしい作品でした。

※以下ネタバレ注意

あらすじ

夏休み前のある日、康一が学校帰りに拾った石を洗っていると、中から河童の子どもが現れた。 第一声から「クゥ」と名づけられた河童は人間と同じ言葉を話し、初めは驚いた家族もクゥのことを受け入れ、クゥと康一は仲良しになる。やがてクゥが仲間の元に帰ると言い出し、康一はクゥを連れて河童伝説の残る遠野へ旅に出る

(シネマトゥデイより)

感想

あらすじだけ見るとやっぱり「友情」「絆」的なものが主題だと思ってしまいます。それも間違いではないのですが、この作品が映すのはそんなキレイごとだけではない。

全編に渡り「人間の醜さ・エゴ」を見せつける作品でした。

冒頭からかましてくるスタイル

あらすじには書いていませんが、まずは冒頭のシーン。江戸時代のクゥと父親の会話から始まるこの一連の場面が、何から何までおどろおどろしく観る者を不安な気持ちにさせます。

クゥの父親の「人間の方が恐ろしい」発言。

酒を飲み悪事を口にしながら歩いてくる侍(役人)。

その眼前に出て丁寧にお願い事をするクゥの父親

侍から見る河童は不気味な化物で加えて悪事を聞かれたと完全に勘違いし、侍はクゥの父親を刀でバサーっ!!


冒頭数分で「あ、これ子供向けアニメじゃないな」と思い知らされる。侍が人間以外の生物を殺傷する違和感と恐怖。河童の見た目は確かに不気味だけれど、行動が異常なのは明らかに人間。友情どころか人間対妖怪の全面戦争が起こるんじゃないか?と思わせる展開で一気に物語の世界にのめり込みます。

河童の異物感

時は流れ現代、化石になっていたクゥは偶然にも康一に拾われ息を吹き返します。序盤から中盤にかけてはクゥと康一、さらにはクゥと上原家との微笑ましい出会い・親交の深まりで物語が進みます。

ただし観ている人にとってクゥ(河童)は単に「かわいい」「ペット」的な生き物ではなく、明らかに我々とは異なる世界の生物だということが強調され描かれています。

特にカタツムリをチュルッと食べるあのシーン。


戦 慄


この河童をペットのように感じたのは人間の一方的な思い込みであり、彼らには彼らの生態がある。それを忘れ徐々に「あ、クゥかわいいかも」と思い始めていた我々は、不意に頭をガツンと叩かれます。

そういう意味で上原家は突然の河童の来訪にいともたやすく適応しすぎなのですが、その例外が康一の妹・瞳です。なかなかクゥを受け入れられず、いつまでも敵視しています。観客に近い目線で存在感があり、それに加えクゥを気味悪がる表情がリアルでかわいく、いい味出しています。序盤は瞳のシーンだけでご飯3杯はいけますね!

トラウマの展開

そうして中盤に差しかかるところで康一とクゥの遠野旅行があり、「やっぱ河童と言ったら遠野だよね!」と話を盛り上げつつ、いよいよこの物語のターニングポイント・テレビ出演へと差し掛かります。

このテレビ出演の経緯もまぁ腹が立つ。なぜテレビに出るって康一の父・保雄が勤める会社からの圧力です。完全に人間の都合。いちサラリーマンの保雄には同情しますが、結局人間の都合でクゥがおもちゃにされてしまう展開。いやぁ人間って自分勝手で醜いねー。

そうしてテレビの生放送が始まりここの展開が本当に秀逸で、恐ろしい。


”先祖が侍(役人)”で”河童はいる”と言い続けてきたおじさんが箱を抱えて入ってくる。

え?あの侍に似ている……

その持ってる箱……ねぇ、それって、もしかして、あれだよね……?

いやいやダメダメ!ダメだって!やめろやめろ!やめ……


うわ〜〜〜〜〜〜〜


もうホラーですよ。遠野旅行を通じてクゥに感情移入してしまっていた私にとってはトラウマです。

おっさんの死。私「人間死ねっ!」

そうして話は佳境に入りますが、ここで本作最大の

人間死ねっ!!

ポイントが訪れます。それが上原家の愛犬でありクゥの最大の理解者であった”おっさん”の死。チャラそうな男が車に乗って出てきた時点で嫌な予感がしたんですよ。


まさかとは思うがやめてくれよ……

おいおいおいおい!

ばか!ばか!やめろーーーーーー!

……


貴様の死をもって償えぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!


怒りの号泣です。

それでおっさんに駆け寄り悲しむクゥを、周りの人間がまたパシャパシャ写真で撮るんですよ。

人間死ねっ!(本日2回目)


個人的にはここがストーリーの最高潮であり、その後何やかんやあってようやく上原家は真の意味でクゥ(河童)と理解しあえるのです。おっさん、ありがとう……!!

特にクゥが上原家から出ていくと知った時に瞳が悲しむ姿が、前半にクゥを毛嫌いしていた姿との対比となり”紛れもなくクゥが上原家の一員となった”ことを伝える良い演出でした。

映し出される人間社会の闇と一筋の光

ということで最後は「離れていてもクゥと上原家はつながっている」的な終わりではありますが、それは同時に「やっぱり河童と人間は一緒に住めないよね」という意味でもあります。

さらに話の終盤でクゥが東京の街を見下ろし呟いた「まるでここは人間の巣だ」というセリフ。このセリフからしてクゥは生まれた場所を人間に奪われ、沖縄に追いやられたというのが紛れもない事実です。

感動的なラストよりも全編に渡る人間の身勝手さの方が個人的には印象深い。


この作品で描かれる人間の身勝手さは他の生物に限った話ではなく、人間同士もなんですよね。

康一の仲間だったはずの同級生は「河童を見せてくれない」という理由で康一をいじめだす。

マスコミたちは上原家をマークし無理矢理クゥの写真を撮る。

クゥの噂を聞きつけ上原家に群がるやじ馬たち。

おまえらいい加減にしろよ!

と言いたくなる行動の連続でした。


こんな人間が支配する世界で河童のクゥが共生できるはずがない。だから上原家とクゥが選んだ「離れた土地で干渉しあわずに暮らす」というのが、唯一人間と他の生物とが同じ地球で生きていくための術なんだと思います。

それでも最後、にクゥと上原家が仲良く撮った写真。それは「違う生き物でも、離れていても、そんなこと関係なく家族になれる」という辛く悲しい選択を薄っすらと照らす救いの光に感じました。

とにかくみんな、観よう!

クゥと上原家の絆」「人間と他の生物との共生」「人間たちの身勝手さがもたらす災い」などなど、様々なテーマが込められてた本作。

これを観てどのようなメッセージを感じ、どんなことを考えるでしょうか。子どもも大人も関係なく、たくさんの人に見てほしい映画でした!

あの情熱を思い出せ。映画『おっぱいバレー』感想

こんにちは。

Huluで配信されていた綾瀬はるか主演の『おっぱいバレー』を観ました!

おっぱいバレー

おっぱいバレー


もうタイトルを書くだけでこっ恥ずかしくなりますが、これがどうにもなかなか良い映画だったので感想を綴ります。

※ネタバレ注意!!

あらすじ

1979年、北九州。赴任早々、中学の弱小男子バレー部顧問になった新任女性教師、美香子は、やる気ゼロの部員たちに“試合に勝ったらおっぱいを見せる”というあり得ない約束をさせられてしまう。そんな約束に戸惑う美香子をよそに、部員たちはおっぱいが見たい一心で練習に打ち込み、別人のように強くなっていく。ピンチを迎えた美香子先生の運命は…??

(Hulu-おっぱいバレーより)

感想

”おっぱい”。

それは男にとって永遠のあこがれ。

それは男子中学生にとって未だ見ぬ夢の果て。

それは人類にとっての宝。

……

だったはずだ。

しかし全世界にインターネットが広がった現代においてかつての夢は、夢では無くなってしまった。

今はおっさんだろうが高校生だろうが中学生だろうが、Googleに「おっぱい 画像」と入力すれば一瞬でかつて夢見た場所に辿り着ける。それどころか「おっぱい 動画」と入力すれば動くおっぱいさえもあっという間に手に入る。


かつておっぱいの写真を見るためには道端のエロ本をこそこそと持ち帰えり親から守る必要があった。学校で教師の目を忍びビデオを交換し、その秘密を守り抜く必要があった。

そう。性に目覚める一方で校則に縛られる男子中学生にとって、おっぱいを拝むのは写真や動画でさえ命がけだった。

だからこそ”生おっぱい”への思い、憧れは今とは比較にならないほど強かった。

しかし時代は進み、前述のとおり手軽におっぱいを手に入れられる環境となった。もちろん写真や動画が簡単に手に入るからと言っておっぱいの尊さが変わるわけではないが、かつてのような執念にも似た情熱をおっぱいに抱く時代は戻ってこない。


この『おっぱいバレー』は現代に失われたおっぱいへの情熱をバレーボールを通して思い出させる青春映画だ。


舞台は1979年、インターネットもスマホもパソコンも無い時代。

冒頭一発目におっぱいを思い起こさせる太陽のカット。

自転車の上で手のひらを広げ、感じる風におっぱいの感触を求めるバカな男子中学生。

そして赴任してきた巨乳の美人教師。


このプロットだけで瞬く間に少年時代へトリップする。限られたエロのリソースを大事にし、大人のお姉さんに沸き立つ登場人物たちは、生きた時代は違えどかつての自分を思い起こさせる。


そうして目の前のエロ本に群がるだけだった弱小男子バレー部に、暴力的なまでなおっぱいを持った新任教師が顧問に就く。

男子バレー部にとっては人生で最大の興奮だったに違いない。

「リアルなおっぱいが拝める。同い年の貧弱なあれではなく、圧倒的な力で輝くあのおっぱいを。」


さらに彼らに訪れた「大会で1勝したら先生のおっぱいを見られる」というチャンス。

中学3年間、何にも努力せずエロいことばかり考えていた彼らがエロいもののために努力を尽くす。

自分にもこんな欲にまみれた青春があってもよかったかもしれない。エロだけではない。それを通して生まれる友情。見ていて青臭い、しかし胸を熱くする。この映画が熱くするのは中学生の股間だけではないのだ。


まぁでも人生そんなに甘くない。数ヶ月の努力で2年以上努力していた奴らに敵うはずはなかった。生まれて初めての努力は、結果を得られずして終わりを迎えた。

ここで「でも美香子(綾瀬はるか)はおっぱいを見せるべきだった」という意見を聞いた。ばかやろう、そんなわけ無いだろう。

バレー部は勝てなかった。おっぱいを見るための条件を満たせなかった。それなのにお情けでおっぱいを見せたて誰が満足するのだろうか。


バレー部のおっぱいに賭けた情熱は、妥協で満たされるようなものだったのか?

「私のおっぱいのために頑張りなさい」と激励した美香子のおっぱいは、情けで見せるような安いものだったのか?

違うだろう。彼らが目指した、彼女が掲げたおっぱいは高貴で、勇ましく、尊く、気高いものだったはずだ。それを妥協や情けで見せていいはずがない。


むしろ人生最大級の悔しさを味わった男子バレー部は、よりおっぱいへの情熱を燃やすことだろう。そうしていつか彼らが見る本物のおっぱいは、妥協せず全身全霊を捧げた末に辿り着く一点の曇りも無い、人生の宝となるだろう。

その瞬間に彼らは思うはずだ。

「あの時妥協しないでよかった。頑張って良かった。」

と。

その気持ちを抱けた瞬間だけが、彼らをあの悔しさから解放する。彼らのあの努力が報われる唯一の道なのだ。

おっぱいをきっかけに、大人になった少年たちは豊かな気持ちで豊かな人生を歩んでいく。そんな明るい未来を予感させる、素晴らしい幕引きだったと思う。


男性の中にはこの映画の少年たちのように喜びへ昇華させた人もいれば、妥協の末にモヤモヤしてしまった人もいるだろう。でも今の自分がどうかなんてどうでもいい。

「おっぱいに焦がれ目を輝かせていた時代には戻れない」ということだけは同じだ。

今の自分がどうであれこの映画を観て少年時代にトリップし、ほんの少しの間おっぱいへの情熱を再燃させてみてはいかがだろうか。 それはおっぱいへの情熱を失わせる一因となった現代のテクノロジーが、私たちに平等にもたらしてくれた機会なのだから。


最後に。

”自分もあと8年ほど遅く生まれて『おっぱいバレー』に出演し、綾瀬はるかのおっぱいに飛び込みたかった。”

という気持ちをここに記して結びにする。


以上『おっぱいバレー』感想でした。